気づいたら、まとめてた。

ただひたすらに興味のある事柄をまとめるだけの簡単なお仕事です。

紅茶 前編

 

紅茶って美味しいですよね。f:id:Kawausoman:20180511220354j:plain

単体で、あるいは何かを食べながらと楽しみ方は人それぞれ。

現代ならティーパックやらで簡単に淹れて誰もが家庭で楽しめる、そんな飲み物になっています。

紅茶といえばイギリスと浮かべる人は多いと思いますが、発祥はイギリスではありません。それどころか、元々ヨーロッパでは紅茶、つまりはお茶をそもそも認識すらしていませんでした。

この記事ではイギリスを主に取り上げ、いかに紅茶が変遷を遂げたか見ていきます。

 

   

  

1.始まりは中国

 現在の紅茶は発酵茶(不発酵は緑茶、完全発酵が紅茶)が原型であると言われています。これは10~13世紀ごろに登場したとされていますが、どうしてお茶を発酵させるようになったかはわかりません。他の発酵食品みたいに放置してたらいつの間にか、とかそんな感じでしょうか。

 

 茶葉自体が利用され始めた、という記述は古代中国の伝説にまで遡ります。農業や漢方の祖である神農が、野草と茶葉を食べて生きていたというものです。めっちゃ健康的。

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 漢代(紀元前1世紀)では今のような嗜好品としての扱いではなく、むしろ薬として考えられていました*1。さらに、紀元前59年ごろに書かれた『僮約』という奴隷との契約文に茶の記述が見られました。

 

 時代は下り、4世紀ごろに茶葉の栽培は始まり、7世紀ごろには緑茶が飲み物として広まります。しかし、嗜好品であったため、庶民には広がらず貴族など位の高い人たちが飲むことができる、大変貴重な物でした。

 

 その後、シルクロード等での交易を通じて、お茶はアジア各地へ急速に広がっていきました。

  

2.ヨーロッパへの広がり

 ヨーロッパに茶がやってきた

14世紀、マルコ・ポーロは東アジアへと貿易のために向かいました。そのころには茶はアジア各地で親しまれていたはずですが、著書である『東方見聞録』にその記述はありませんでした。

 

 17世紀、大航海時代の終わりごろになるとオランダが中国に貿易でやってくるようになりました。それからオランダは、1610年に中国のマカオで緑茶を初めて買い付け、本国へ輸送しました。これがヨーロッパに初めて茶が輸出された最初の記録です。

 オランダでは17世紀中ごろから喫茶文化が国内で一般化していきます。初期には中国の茶碗のような碗で飲まれていましたが、現代のようにソーサーとティーカップで飲まれるようになると、エチケットとして、カップから茶を受け皿に注ぎ、香りをかぎながら音を出してすすっていました。カップの意味とは。ちなみに、エリザベス2世が田舎を旅した時に同じようなことをしたという話*2もありますね。面白いのでググってみてください。

  さらに、お茶会では客人はお茶を勧められたら断ることはマナー違反とされ、各々10杯から20杯のお茶を楽しんでいたそうです。夕飯食べられなくなっちゃう。

 

 そんなこんなで最初にヨーロッパでは緑茶が飲まれ、1750年頃から紅茶がそれにとって代わり、ヨーロッパの一部では朝食時にコーヒーに代わって飲まれるようになりました。コーヒーはまた別記事で書きますが、コーヒーのほうが普及が早かった理由はおそらく地理的条件でしょう。コーヒーの産地のほうがヨーロッパに近く、輸入方法が容易であったことなどが挙げられると思います。

 

そしてイギリスへ

 イギリスを見て行きましょう。

   1662年、ポルトガルの王女キャサリンがイギリス王室に嫁ぎました。その時にお茶と大量の砂糖がイギリスに持ち込まれ、茶に砂糖を入れて飲んでいました。贅沢品をたっぷり使う。それを見た貴族たちはこぞって真似し始めました。

(↓紅茶をイギリスに持ち込んだキャサリン・オブ・ブラガンザ)

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 そうなると需要に供給が追い付かなくなります。次第にイギリスは茶を専売にしていたオランダからなんとか茶の貿易ルートを奪えないか画策し始めます。その方策としてオランダからの茶の禁輸を法で定めると、当然オランダはぶちギレて両国間で戦争に発展します(第三次英蘭戦争1672~1674年↓)。

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 この戦争にイギリスが勝つと獲得したお茶の輸入権を行使して、福建省厦門から茶を輸入し始めました。このころ、ここに集められていたのが発酵した紅茶に近いもので、さらにイギリス人の味覚に合わせ不発酵の緑茶から発酵茶の紅茶へとシフトしていきました。

 こうしてイギリスで紅茶文化が花開きました。そして紅茶は当時イギリスの植民地であった北米へと運ばれます。アメリカです。

 

アメリカの反発と密輸

 植民地であるアメリカにイギリスは議会に植民地人を招かず、欠席裁判じみたことをして重税を押し付けつけていました。当時アメリカは紅茶の一大マーケットだったので、そこから税を取ればウハウハっていう寸法です。当のアメリカ人はイギリスから輸入すると高いんで、オランダなどから密輸してました。また、流通量の4分の3程度がオランダ等からの密輸だったという話もあります。

 紅茶への課税でアメリカでの消費が落ち込んだ結果、イギリス本国では在庫がだぶつく様になりました。すると今度はイギリスは米植民地にだぶついた在庫を無課税で押し付け始めます。まさに外道

(↓ボストン茶会事件

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 ある晩、紅茶を押し付けるためにやってきていた船にネイティヴアメリカンに扮して、植民地人達が乗り込みました。すると、イギリスから運ばれてきた茶葉が詰まった箱を抗議の意味をこめて、海へ次々と投げ捨て始めたのです。いわゆるボストン茶会事件(1773年12月16日)ですね。警察は犯人を捕まえようとしましたが、植民地人がこぞって「ボストンで茶会開いただけだよHAHAHA‼︎」とジョークでごまかした結果、ついには警察は真犯人を捕まえることはできませんでした。

  この事件をきっかけにアメリカは独立戦争へと突き進んでいきます。イギリス本国に対する紅茶の不買運動の表れとしてコーヒーを飲むようになりました。抵抗と誇りの味ですね。

 

3.アッサム種の発見

 1823年、イギリスの冒険家ロバート・ブルースがインドのアッサム地方で紅茶生産に適した「アッサム種」を発見しました。

(↓アッサム種)

Assam Tea Garden, Close-up of tea leaves

しかしながら、当時茶樹であるかどうかは植民地であるインドのカルカッタ植物園で決められており、このアッサム種は茶樹として認められていませんでした。しかも、この時に鑑定された結果は椿

 イギリスは中国での貿易を独占していたとはいえ、密輸や混ぜ物などの問題、そして本国の高まる需要に応じるべく、インドで研究が進められるようになり、ついには茶樹として認められるようになりました。この研究過程で緑茶と紅茶の違いが製法の過程であることも発見され、ますます生産が加速していきました。

 こうして、インドは紅茶の大生産地へと変貌していきます。

  

続きます。

 

 

 

 

 

*1:『神農本草経』に茶の効能についての記述あり

*2:『紳士道と武士道、日英比較文化論』トレバー・レゲット著 1973