なぜ人は働くのか。
日本の大学生が最も恐怖することは何か。
好きな子に振られること?
単位を落とすこと?
今度のイベントが失敗すること?
否。
就活である!!!!!(偏見)(私文)
三回生の人は自己分析とか始めちゃうタイミングですよね。自己PRで嘘つくのはやめましょうね。
四回生の先輩方はそろそろ就活解禁(大嘘)ですね、どんな感じだったかぜひ教えていただきたいです。
本題に入りましょう。
ある長期インターン(落ちたけど)の面接の最中、僕はある質問にだけ答えられませんでした。
「どうして働くの?」
え、世のため人の……ため?
これは答えられませんでした。正確には自分なりの答えが出てこなかった、金太郎飴のような紋切り型の答えしか出なかったということですが。
今回は人はなぜ働くのかについて歴史的背景を追求することで何か答えを見つけられたら、と思います。
歴史的背景
昨今、「AIが仕事を奪う」というような本が本屋で平積みにされています。
たしかに折角苦労して入った会社で「AIで代替できるようになったからクビね」というのは洒落になりません。
どうして人は働かなくちゃいけなくなったのか。
奴隷だけが働く社会(古代ギリシア)
昔は今みたいな規模の国家は存在せず、せいぜい一つの都市で完結する都市国家が存在していました。これらの都市国家をポリスと呼びます。
古代ギリシアにおいて、人は主に三つに分類されました。
市民、奴隷、外国人です。
一番上の位、それは「市民」です。彼らは政治と戦争に参加する権利と義務を負っていました。
え?仕事は?食べ物どうすんの?
しませんよそんなもの。彼らの存在意義はポリスの存続です。
彼らはポリスをより良くするために政治に参加する権利を持ち、万が一、他のポリスに侵攻されたならば自分の武器と防具を揃えてポリスの一員として防衛する義務がありました。
労働は奴隷の仕事です。
そうです、本来労働というものは奴隷の行う卑しいことの一つだったのです。
では、なぜ労働が今のような価値観になったのでしょうか。
労働の肯定と農奴(中世)
中世になるとヨーロッパではキリスト教の影響を強く受けるようになります。
キリスト教で重要な語句として「原罪」というものがあります。
これはアダムとイヴの楽園追放に端を発します。蛇にそそのかされて禁じられたリンゴを食べて知識をつけた結果、アダムとイヴが楽園を神によって追放されるというやつですね。
イヴは出産の痛みを罰として与えられ、アダムは汗水垂らして働くということを罰として科されます。また、欲望に負けてしまったことでこの間違いが起きてしまったという解釈から、禁欲という概念が生まれました。
このようなキリスト教観では人は皆等しく罪を背負ってこの世に生を受けるとされています。この罪を贖うために罰としての労働に精を出すということですね。
なんちゅうことしてくれたんや。
そして時代はさらに下り「働かざるもの食うべからず」という言葉も生まれてきます。
キリスト教を体現する者として、人里離れた土地に修道士たちが住んでいました。
修道士たちは昼は畑で肉体労働をして体を痛めつけることによって、この罰というものを受け入れ、信仰心の表れとしていました。ここから労働=美徳、信仰の表れとなり、禁欲を実践していました。
この修道士らは村の人々から尊敬される存在であったのでこの労働=美徳と禁欲という価値観が俗世にも浸透していきました。
宗教改革と資本主義(プロテスタンティズム)
これはルターやカルヴァンらによって始められ、既存のキリスト教であるカトリックを否定したことからプロテスタント(抵抗する者)として位置づけられました。
この宗教改革は教会がお金欲しさに「この札を1枚買えば、あなたが犯した罪が1つ消える」と言って贖宥状(免罪符)を売り出したことをルターが否定したことから始まります。
彼によると「良い行いかどうかは神が決めることであり、人がどうこうする問題ではない」として95ヶ条の論題を自身が教授を務めるヴィッテンベルク大学の戸に打ち付けました。
彼の功績は世俗とキリスト教を特権階級化した既存のカトリック教会の垣根を取っ払ったことにあります。
彼は万人司祭主義を唱えます。これは世俗の者も労働を行なっているのだから、キリスト教徒全員が司祭(修道士)であるとするものです。これによって世俗の職業にも宗教的意義が付され、さらにはそれまで修道士が浮世離れをすることで行なっていた禁欲すらも、世俗の人々に義務として浸透していきます。
しかし、これらのプロテスタンティズムはカトリック教会によって迫害され、人々はイギリスやスペイン、フランスやアメリカに移動していきます。
16世紀中頃、カルヴァン主義が生まれます。
カルヴァンはルターの「神のみが人を救う」という考え方をさらに進め、人が救済されるかどうかは予め決められており、努力も才能も関係ないという予定説を唱えます。
じゃあ頑張る必要ないじゃん、具体的にはどうすれば救われるのよ?という批判を彼は「天職」を持ち出します。
天職とは神によって定められた仕事であり、この定められた仕事を頑張ることで信仰の現れとし、人は救われるのだというものでした。
この仕事を頑張ることで自己の中で「自分は良いことをしている」と確信し、稼いだお金を再投資し管理することで神は更に喜ばれる、と営利活動について人々はそう解釈しました。
こうして資本主義が生まれたわけです。
今みたいな天職=自分の能力を最大限に発揮できるという概念ではなく、神から与えられた仕事であるから全て天職であり、その中で頑張るということが元々の意味だったようです。いやーストイックですね。
まあ詳しい話はマックス・ヴェーヴァーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んでください。ここではめっちゃ簡単に書いただけなので。
人は金で動くのか?(ピン工場と自動車工場)
みなさん、国富論って読んだことありますか?
アダム・スミスですね。
経済学部生なら一回くらいは読まされるんじゃないでしょうか。
彼はこの著書の中で「ピン工場」の話から始めています。引用してみます。
(ピンの製造工場では)あるものは針金をひきのばし,つぎのものはそれをまっすぐにし,3人目がこれを切り,4人目がそれをとがらせ,5人目は頭部をつけるために針金の先端をとぐ。頭部をつくるのにも2つか3つの別々の作業が必要で,それを取りつけるのも特別の仕事である。―このようにして,ピンづくりという仕事は約18の作業に分割されている。―わたしはこの種の小さい仕事場をみたことがある。
と書き始め、1人でピンを作るならば、1日に作れるのは職人でも20本から30本程度である。しかしこのように分業をし、1つの工程を極めさせれば素人が集まっても1日に4万8千本以上を作ることができるのだ、と述べています。
これは資本主義経済のスローガンとなりました。
さらに具体化したのがフォードの自動車工場です。
車の型をベルトコンベアで流して、1人が1つの工程を行う。アダムスミスのピン工場とやってることは同じです。
想像してみてください。仕事場に放り込まれて、やっすい賃金をもらうためにずーっとピンを作るために針金引き伸ばしたりしたいですか?
したくないに決まってるじゃん。
たしかにお金は大事ですが、仕事は人生の大半を占める物です。やっぱ充実させたいよね。
そのような考えが広まり、やがて人は他者から「承認」される仕事を求めるようになります。
自己実現としての仕事(現代)
じゃあ仕事と労働ってどう違うの?
考えて行きましょう。
活動、仕事、労働(哲学的アプローチ)
ハンナ・アーレントは『人間の条件』という著作の中で、史上初めて仕事と労働の違いについて言及した政治哲学者です。
引用します。
労働laborとは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行ない、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生みだされ消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である。
仕事workとは、人間存在の非自然性に対応する活動力である。人間存在は、種の永遠に続く生命循環に盲目的に付き従うところにはないし、人間が死すべき存在だという事実は、種の生命循環が、永遠だということによって慰められるものでもない。仕事は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。そこで、仕事の人間的条件は世界性である。
活動actionとは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行なわれる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間manではなく、多数の人間menであるという事実に対応している。たしかに人間の条件のすべての側面が多少とも政治に係わってはいる。しかしこの多数性こそ、全政治生活の条件であり、その必要条件であるばかりか、最大の条件である。
ざっくり言うと彼女は、人間の行動を3つに分類しました。上から目指すべき順番です。
1.活動(Action)
人が自発的に行う、心からやりたいと思ったことを行動に移したもの。古代ギリシアの市民はここですね。
2.仕事(Work)
職人として、その道のプロとして誇りを持って行うもの。対価を得るため、という理由は存在するがそれを考慮してもなお、やる気に満ち溢れて行われるもの。
3.労働(Labor)
完全に日銭を稼ぐために行なっているもの。苦役。やらなくていいなら進んでやらないもの。まさにピン工場。
もっと深掘りしましょう。(以下は要約です。)
「活動は世界の客観的なリアリティであり、これによって行われる行為と言論で異なる人々の間で相互に自分が何者なのかを「Who?=人格的アイデンティティ」と「What?=肉体的アイデンティティ」によって示す行い(差異性、他者性、多数性)であるとしています。
「仕事は芸術作品(art)を作り上げる工作のことを指す。人間はいつか必ず死ぬので時代を超えて存在できるような世界を目指す。労働は元々あるものを使って物を作り出す行為であるが、仕事は思考を用いて無から作り上げるものである。」とし、思考をして作品を作り上げること、ここに人間たる所以を見出しています。
「労働は必然性であり、生命維持も必要性である。労働=生命維持であったのに、生命維持が機械によって楽になったのでこの生命維持=必要性ということを人は忘れかけている。したがって、人間は自由から遠ざかっている」としています。
さらに、人間社会というのは二つの領域に分けられています。
それは公的領域と社会的領域です。前者は活動の領域であり、自分自身(人格的アイデンティティ)を表現する「現れの空間」です(活動、仕事)。後者は私的な領域であり、画一的であるとしています。(労働)
後者の社会的領域が前者の公的領域を上回ったために真の自由である公的領域が奪われ、人間は画一的で必然性にとらわれた社会的領域に生きているということです。
これはわかりますね。昨今のグローバル化で画一化されてきているのは誰もが感じるところだと思います。
アーレントは1〉2〉3の順に人間の行動として質が高いものとし、活動こそが至高であると主張しています。
働くということは、生きていくうえで必要な行動です。
しかし、働くこと=労働にするのではなく、働くこと=活動とし自己実現の場であることを我々現代人は目指さねばならぬようです。
このセクションではひたすら哲学の話をしているのでわかりにくいと思います。
もっと具体的に知りたい、という方は自分で調べてみることをお勧めします。
ここで覚えておいていただきたいことは仕事と労働は似て非なるものであり、これらの違いは必然性である。
社会が成熟するにつれてこの必然性は薄れてきており、人間は高次の仕事や活動へとシフトしていくべきだ、ということです。
どうやら現代の仕事観の根っこはここらへんにありそうです。
4つの人間類型(経営学的アプローチ)
経営学における人的資源のアプローチ方法には4つあります。
1つは経済人。簡単に言うと「人は金で動く。」
20世紀初頭のF・W・テイラーによって考え出されました。
完全にフォードですね。めちゃくちゃ合理的ですが、本当か?
ただ、これは科学的管理法と呼ばれ、古典的なものではありますが現代の成果主義、成果報酬制に結びついているとも言えます。
よく経済学で用いられる概念ですね。
2つ目は社会人。
人は金だけでは働かない。社会に属している満足感で安心し、仲間と働く喜びのために仕事をするという考え方です。
これを唱えたのはE・メイヨーをはじめとする人々でテイラーの経済人モデルを批判し、人間関係論のマネジメントの必要性を説いています。ただ、時代の流れで成果主義評価が導入されるようになってしまいました。その結果、短期的な成果に執着するようにむしろ企業が弱体化。人間関係を初めとした中長期的な戦略を考えるうえで近年再び、注目されてきています。
3つ目は、自己実現人。
人はより高度な欲求で動く自律的な存在であるという考え方です。
これは先の二つがお金や人間関係といった組織依存の人間を想定しているのに対し、自分の才能を伸ばすことや自分らしく生きるということを重視した組織から離れたより自律的な人間を想定しています。このモデルを提唱したのがダグラス・マクレガーです。
自分の活躍できるところで戦いたい、そういう動機は確かに存在します。金や周囲の人間関係という外部的側面だけでなく、自分の可能性、潜在能力を発揮するという内的側面も考慮したモデルとなっています。
最後の4つ目は複雑人モデルです。
一言でいうと「みんな違ってみんな良い、人は十人十色」という考え方です。①~③のまとめみたいな感じですね。
E・H・シャインが提唱しました。
人間には、経済人も社会人も自己実現人もいる。人間とは本来複雑な存在です。血液型占いのように人間をタイプ分けするなんて無理なんです。すべての人がそれぞれ動機をもって働いているというのがこの考え方の根っこの部分です。
また、彼は人生の時々でどのタイプがどのように顔を出すかが変わってくるということも言っています。20代ではギンギラギンにお金を求めても、40代になったら仕事を通じて自分を高める自己実現人になり、60代には職場の雰囲気を大切にする社会人になるなんてこともありえるわけです。人によってはもっとスパンが短かったり長かったりするでしょうね。
心理学の面からみていきましょう。
心理学者であるマズローは人間の欲求は5段階に分けられると言いました。
欲求段階説です。
下から上に高度になっていき、1つの段階をクリアすると上に上がっていくことになります。
大戦以後、下の安全と生理的欲求は満たされるようになり、3つ目のステージである社会的欲求が重視されるようになります。
先の複雑人モデルでなぜ画一的に人をモデル化できないかをここから考えると、金という安全欲求、会社に属する安心感という社会的欲求やそこから認められたい尊敬欲求。さらに高みを目指す自己実現欲求に基づく自己実現人。
人によって、今いる段階が異なる。だからこの複雑人モデルが出来たんですね。
仕事を通じて自己実現をしたい、今の社会はそんな風潮があります。だから、お金や人間関係という依存を脱却し、自律していこうみたいな動きがある。
さらに言えるのは、インターネットの普及です。インターネットのが普及したことで別に出社する必要がなくなったわけです。世界どこでも仕事できるようになりました。いわゆるフリーランスですね。
だからこそ、人生の大半、いや9割以上を占めうるようになった仕事で自分とは何かを発見し、伸ばす。
そういった自己実現の風潮が出来上がっていったと僕は考えます。
結果的にワークライフバランスとかQOLとか言われるようになったわけですね。
考察
では最後に尊敬される仕事について考えてみましょう。
質問です。
コンビニ店員は尊敬されますか?
僕はNoと答えますね。
なぜなら誰でもできるから。
全てマニュアル化されていて、労働力を持ってくるだけ。
じゃあなんだ。
医者?弁護士?それともバイオテクノロジーとか世界のためになることを研究する研究者?
よく考えてみてくださいよ。
彼らは高度な教育を施され、専門化しています。つまりスペシャリストです。
結局、ピン工場から抜け出せてなくないか?
何でもかんでも出来たらそれは天才ですよ。そんな人はルネサンス期のイタリアでは「万能人」として崇められていました。
じゃあなんで働くのさ?
これはいろんな答えがあると思います。
僕の意見を書いておきます。
最近の世の中は専門化しすぎちゃって、周りが見えなくなっている。隣の人が何をしているのかすらわからなくなっていると思うんですよね。
組織の中にいても、隣の人が何してるかすらわからない。そんな時代になってきているわけです。
さらにそれに拍車をかけるのがAIですね。AIなんてどう動いてるかそれ専門の勉強しないとわかんないでしょ?一般人はほとんどわからない。ブラックボックスなんです。
そうするとドンドンドンドン他人に興味をなくしてくるわけですよね。別に他人なんて関係ない。自分は自分、他人は他人。人間は社会の中にいることで人間たり得るのに。
本当にそれで良いの?
AIって人の仕事を奪うの?本来は仕事しなくてよかったじゃん。それじゃダメなの?
今の世の中で求められているのは人と人を無機的に繋ぐのではなく、有機的に繋ぐこと。
人は一体どういう存在でどう生きるべきかが再び問われる時代になってきていると思います。
哲学的アプローチと経営学的アプローチを繋げるならば、自分の得意分野で戦うことで社会に貢献しつつ、実現したい未来の自分像に向かって努力することが仕事。思考停止である労働から脱却し、誇りをもって創意工夫を行う仕事へと進めるため。そして、自分の創意工夫した作品によって活動へと昇華し、人々を再び属人的に、有機的に繋ぎなおすため。
これこそが僕の働く理由です。
皆さんもこの問題、ぜひ考えてみてください。
良かったらコメントでそっと教えてください。
よろしくお願いします。
以上です。
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